話せばわかるという言葉があります。
相手の気持ちや感情に寄り添うステキな文言のように扱われることが多い言葉ですが、はたして本当にそうなのでしょうか?
今回は「話せばわかる」その裏に隠された本質に迫っていきたいと思います。
話してもわかり合えないのが「普通」
価値観が異なる相手とも、腹を割って語り合う機会があれば、必ずわかりあうことが出来る・・・・。
そんな幻想が通用するのなら、今頃は世界の国境など取っ払われていることでしょう。
なぜ人間はわかりあえないのでしょうか?そもそも、本当に相手のことを”理解しよう”としているのでしょうか?
この疑問に、私はNo。理解しようだなんて、これっぽっちも考えていないのだと意見を述べたい。
なぜなら人は、自分の存在を安易に否定することができないからです。
だって、自分の存在を認められないと、なんのために生きているのか次第にわからなくなってしまうから。
しかし、これは生物ならば当然の反応といえます。
長年信じてきた自分の意見を曲げて、過去の自分を○すことになど誰も好き好んでしたいはずないのですから。
相反する主義主張がぶつかり合う様を想像して見てください。
いままで長年信じてきたことをキッパリ捨てさせ、相手の意見を全面的に受け入れることなど、一体どれだけの人間ができることでしょうか。
かつて田舎侍であった坂本龍馬が、西洋の回し者と呼ばれていた勝海舟を切り捨てようと乗り込みますが、今の日本がいかに遅れいかに世界は広いのかと逆に説得させられてしまうという出来事がありました。
その後、龍馬は勝海舟に弟子入りし、世界に繰り出す海援隊を組織することになりますが、普通の人間ではただの主張のぶつけ合いに終わることでしょう。
互いに譲れないところがあったり、片方が頑固に意見を受け入れない態度を取ったり、純粋に相手の意見を聞き入れる体制が整ってはじめて「話せばわかる」が通用します。
こんなに条件が揃った話し合いの場は滅多に開かれることはないので、「話せばわかる」がとてつもないレアケースの話だと言うのがわかります。
「話せばわかる」のなら、国家間の戦争が起こってしまうのはなぜ?
話してもわかりあえないという事実は、国政を率いるエリート官僚達ですら例外ではありません。
国家の頭脳たる優秀な人物による会議ですら、内容によっては決裂、一昔前は戦争という最後のカードを切る羽目に陥っていました。
本来ならば互いの意見をすり合わせて、折衷案で納得できないものかと首を傾げたくなりますが、そうしたくない裏の事情が彼らにはあるのです。
官僚の仕事は、自らが所属する国家の利益の追求であって、決して交渉相手とおてて繋いでゴールすることではありません。
「話せばわかる」といって、殺害された犬養首相のように、「話せば分かり合うことができる」というのがいかに難しいことであることであるかがよくわかります。
「話せばわかる」の本当の意味は、相手をコントロールしようとする初動
それならどうして、一見すると全く見当外れの「話せばわかる」という言葉がこれほど世間一般に広がっているのでしょうか?
それは、「話せばわかる」と教育していた方が、なにかと都合がいいからです。
日本社会は従順な人間を求めています。
社会のあり方に疑いの目を向ける人材、学校のテストに疑問を抱くような人材は最初からお呼びじゃありません。
疑いを持つことなく黙々と課題をこなすことができる従順で優秀な人材が重宝されるのが社会の実情です。
社会を維持・管理してくれる人材を作り出すべく、金と時間をかけ私達は教育されてきました。
人の考えや思想はそれぞれで、世界では絶えず争いが止まないのに、それでも「話せばわかる」と念仏のように唱えつづけるのは従順教育の邪魔になってしまうから。
世間の普通や常識・風習・伝統で幼い世界を穴埋めして、のちに集団を社会を脅かしかねない不穏分子を「話せばわかる」と炙り出すことによって、より効率的で安定的な歯車の供給に一役買っているわけですね。
まとめ
人間は、今まで歩んできた道が無駄であったと思いたくないので、全く相反する意見を受け入れることなどまず有り得ない。
「話せばわかる」の本当の意味は、正確には「話せばわからせる」。つまり、はじめから相手の意見を聞き入れる気などさらさらなく、いかにして自分の言い分を押し通そうとする自己中心的感情が本質にある。
「話せばわかる」には、二つの狙いがある。
- 学校生活によって浮き彫りになる異端者を、矯正しやすくする狙い。
- 言うことを聞かない不穏分子への、説得の場を設ける決まり文句。
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