心がノゾける呪いのゴミ箱 その51

画像が表示されませんでした 創作のゴミ箱
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なんか焦っちゃうんだよね

 

滑り込めなくて月曜日ーというお話

 

うぉー早く投稿するぞーとやる気になるんだけど、無理。サボっちゃう。openfront楽しい。中盤の駆け引き一生勝てない。でも楽しい

 

日曜日には仕上げたいなーといつもぼんやり考えて、けどできなくて月曜日に滑り込み。このパターン結構ある。癖になっちゃってる

 

もうどうせまたずれ込むんだからこの記事完成前に先出。この記事、爆速で書いてる。こうでもしないと延々先延ばしの無限地獄

 

あくまでこの記事はおまけだからね。メインじゃない。だからもっと適当でいいよってことで。なら書くなよって話だけど、ここまできたんだしという無駄なこだわり。捨てるべきなんだけど、捨てられない、捨てられない。書いてみないとわからないことがある。その時考えてたこと参考にして書いてるブログもある。どっちがいいのかはわからない

 

執筆哲学も全く進まない。外発的動機とか、内発的動機とか。外発から内発に切り替えたら最強じゃんという浅い考え。なんだろう。もっとこう、ピースが必要な気がする。もっと簡体に噛み砕いて一つの理論にまとめたいというか

 

四方八方難しい。小説書くのも難しい。今年ももうあと三ヶ月。もっと上手くできるはず。何かしらの成果が欲しい。感情グチャグチャで疲れちゃう

 

いじりといじめの境界線

 

そんなものはないよーというお話

 

芸人さん特有の言葉”いじり”

 

“いじめ”と何が違うのかな?と考える時。鏡理論を使うと、一つの解釈が浮かび上がる

 

澄んだ鏡が”いじめ”と感じていても、くすんだ鏡は”いじめ”とは感じない。個々によって基準がバラけてしまう以上、個人におけるいじりといじめの境界線はあっても、絶対的ないじりといじめの境界線なんてものは存在しないのです

 

いま世界は、どんどん不自由な方向に進んでいっています

 

その一番の原因は、SNS。より正確にいうなら、SNSによって一意見を手にした澄んだ鏡です

 

ある芸人さんが、”素人はSNSをやるな”といって話題になっていました

 

私が考えるに、真にSNSをやめるべきなのは、この発言に反応した澄んだ鏡のように思います

 

澄んだ鏡は、うるさいサイレンのようなものです。鏡に反応する異常を検知すると、ファンファン鳴ります

 

本来世界の大部分は、くすんだ鏡のもの。だけど、SNSによって発言権を得た澄んだ鏡が、くすんだ鏡の世界の中心でファンファン鳴っている。これが鬱陶しくないわけがありません

 

澄んだ鏡とくすんだ鏡をひとまとめにしてきた弊害がここにあります。澄んだ鏡とくすんだ鏡は、それぞれ違った役割がある。このままいけば、対立と嫌悪が渦巻く混迷の時代に突入することでしょう。というかもうなっちゃってます。止められません。SNSが二つの世界を繋げてグチャグチャにしちゃいました

 

澄んだ鏡がくすんだ鏡の世界を諦めない限り、この地獄は終わりません。個人的に、澄んだ鏡は、幻想を捨てるべきだと思います

 

学生時代の話

 

死んで欲しいわけじゃないんだよーというお話

 

中学校時代。卓球部に所属していました。その時、とても不思議な体験をしたのです

 

卓球部には、文化部は入りたくない、だけど運動部で汗を流したいわけじゃないという中途半端組が集まっていました

 

そんな中途半端組の中に、剣道部の子が入部してきました

 

その子がまあ暴力的で。平気で罰ゲームと称してケツバットしたり、暴力を振るってやりたい放題。私も貸したラケットを折られたりしました

 

そんなある日。同じ卓球部に所属する小太りの子が、四階の窓枠の外に出るという出来事がありました

 

元剣道部の子の暴力に耐えかねての行動だったようです

 

当然、飛び降りれば無傷ですみません。死ねる高さです。駆け寄って引きずり戻そうにも、バランスを崩せば真っ逆さま。それが怖くて、私は見ていることしかできませんでした

 

そうさせた張本人もどうやら同じようで。普段暴力を振るって暴れていたのに、この時ばかりは動揺を隠せない様子でした

 

最終的に小太りの子は無事に窓を潜って戻ってきてことなきを得ました。その時、私は気付いたのです

 

いじめっ子は、別にいじめられっ子に死んで欲しいわけじゃないんだと

 

よくいじめっ子は、暴力を振るったり、暴言を吐いたりしていじめっ子をいじめます

 

理不尽に暴力を振るったり、”死ね”と気軽に暴言を吐いてきます

 

だけど、別に死んで欲しいわけじゃないんと思うんです

 

そうじゃなかったら、こんな回りくどいことしないはずですから

 

いじめっ子にとって、いじめとはコミュニケーションなんだと思います

 

くすんだ鏡特有の、信頼関係とでも言いましょうか。ぶつかり合って親睦を深めるとかと同じ部類なんじゃないかなと。この解釈なら、先生にチクられた時のあの反応も当然のことのように思います

 

だから、”いじめをなくそう!”といってもいじめはなくなりません。くすんだ鏡にとってのコミュニケーションが、澄んだ鏡にとってのいじめなんですから

 

本当にいじめを根絶したいのなら。”コミュニケーションをなくそう!”と言うしかありません。いじめ問題に本気で取り組むのなら、人間の繋がりを完全否定する必要があります

 

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